企画展「武将とやきもの」 ~その5.土岐明智氏と古瀬戸系施釉陶器窯の接点を探る~

こんにちは!

長らくこのシリーズを呼んでくださった皆様、ありがとうございます。

ようやく最終回です。


文献と考古を結びつけることは、とても難しくうまくいきません。しかしながら、瀬戸窯から妻木郷への工人の移動は考古学的にわかっており、移動先の土岐明智氏の所領である妻木郷は、守護勢力からある程度独立した立場(奉公衆)であって、さらに15世紀後葉には再び工人たちが瀬戸窯へ戻っていったことは確かです。では、土岐明智氏と古瀬戸系施釉陶器窯を結びつける可能性を探ってみます。


1.古瀬戸系施釉陶器窯成立には幕府が関与していた?

この時期、瀬戸窯の一部をなした飽津保(あかつほ)という地域は、幕府と密接な関係にある醍醐寺三宝院領でした。そして工人の移動先である妻木郷を治めていた在京の土岐明智入道玄宣は、奉公衆として幕府と非常に近い関係にあり、京都において時の権力者と間近に接することができた連歌会にも出席していました。

瀬戸側も妻木郷側も幕府と結びつきの強い地域だったことから、室町時代中ごろまでは幕府による一定の保護があったのではないかと思われます。


2.守護勢力の介入を嫌った工人が、窯業界で逃散行動を起こした?

瀬戸窯においては15世紀になると守護方の介入が目立ち、尾張北東部では百姓逃散事件が多発しました。この頃、瀬戸から古瀬戸焼成窯がなくなる時期と概ね重なってくるとことから、守護勢力の介入を嫌った工人が、窯業界でも逃散行動を起こした可能性が考えられます。


古瀬戸系施釉陶器窯と土岐明智氏を結びつけるような文献が見つからないため推測の域をでませんが、幕府と密接な関係である在京の土岐明智氏が古瀬戸系施釉陶器窯の受け入れをしたのであれば、工人の逃散先が守護勢力から半ば独立した存在の妻木郷だったことは、窯業生産者にとって最適の地だったと考えられます。そして在京の土岐明智入道玄宣が妻木郷から後退していく15世紀後葉に、時を同じくして美濃から瀬戸へ窯が戻った背景には、衰退する幕府の後ろ盾を失った在京の土岐明智氏の存在が考えられるのかもしれません。

茶入 土岐市美濃陶磁歴史館蔵


おわりに。

これらは時代的に桃山陶と称される瀬戸黒・黄瀬戸・志野などが焼かれた大窯が登場する一歩手前の段階にあたります。一番注目されるその華やかな時代の、あえて一歩手前の展示をしたのは、こうした戦乱の時代を駆け抜けて、政治的な圧力にも屈せず窯を守り続けてきた工人の力強さが垣間見れるからです。

こうした歴史を経て次の大窯へ続いていくのですが、これは美濃焼1300年の歴史のほんの一部のお話です。

工人たちはこの後も厳しい時代を生き抜いて、そして現代につながっていくのですが、それはまた平成30年度の企画展でご紹介できればと思います^^


それでは会期終了まで残り少ないですが、ご興味のある方はぜひお越しください☆


会期:開催中~平成30年3月4日(日)


(光枝)

Minoyaki Museum Official Blog

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